慈眼寺の歴史

水波田観音について

歴史と伝説

 慈眼寺には祈願所として観音堂があり、「(大宮)水波田観音」として昔から地元の人たちの信仰を集めています。歴史資料によれば、古くはこの観音堂が慈眼寺の本堂であり、現在の本堂は書院であったことが読み解けます。
 観音堂の本尊、秘仏として安置されている千手観音菩薩の尊像は、当山の開祖である慈覚大師円仁が一刀入れるごとに三回礼拝して謹刻されたものと伝えられていること、「蓮華寺」と称していた時「観音堂」はあったが「本堂」は無かったこと、円海上人が観音堂を再建したことで「中興の祖」とされたこと、そして当山に伝わる古図面(右の写真)からも当山の中心が観音堂であったことが伺えます(本堂ができたのは寺請制度の確立する江戸中期頃と推測されます)。
 水波田観音は、慈眼寺に伝わる縁起に「硯の海かぎりなく、筆の山を積みても述べるにいとまあらず」と言われるほど、その功徳を表す言い伝えが数多く語り継がれています。永禄5(1562)年に北条勢の焼き討ちを受け焼失した時、観音様は仁王門脇の柊の木にお宿りになって避難され、夜が更けるとこの柊の木の上から神々しい光明を現じたと言います。後に岩槻の慈恩寺に預けられたが、住職の夢に現れ「霊意に叶わず」とのお告げにより当山に帰座せられたということです。この伝説の柊は残念ながら枯れてしまい現在仁王門の脇には二代目の柊が植えられていますが、先代の柊は、鎮座された本尊様を守るかのように、下の方もトゲのある葉で覆われていたと記憶しています。この他、「観音様を信仰していた男が、ある時罪を着せられ首をはねられる破目に陥ったが、彼が一心に観音様を念じると、御堂の方から金色の光が差し込んで太刀取りの目がくらみ、太刀は三つに折れて男の命は助かった」「旱魃の折、観音様に雨乞いをしたところ慈雨が降った」など数多くの伝説が残されています。

千手千眼観世音菩薩

 一般に「観音様」と言いますと、十一面観音、馬頭観音等、様々に変化した形で表されますが、水波田観音は、千の目であらゆる人を見、千の手であらゆる人をお救い下さる「千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)」(通称「千手観音せんじゅかんのん」)です。水波田観音の像は、慈眼寺の秘仏として観音堂の中心の宮殿の中に安置されており、宮殿の手前に御前立(おまえだち)と呼ばれる化身の仏像が安置されています。
 秘仏である千手観音様の宮殿の扉が開かれる「御開帳」が、十二年に一度、午年の四月に行われています。観音様への信仰は古来より馬との関係が深いとも言われ、慈眼寺では、かつては二月十七日の縁日に、近郷近在の馬が手の込んだ革製の飾り鞍を付け、鈴を鳴らして観音様に参拝し、馬の無病息災を祈ったと言います。
 尚、当山の観音様は足立坂東三十三ヵ所観音霊場の第三十二番札所となっています。

 

慈眼寺の歴史概略

 縁起によれば、天長3(826)年、慈覚大師円仁は淳和天皇の勅を承け、仏法を伝え弘めるために東国を歩かれ、当山はその際に同大師によって創建されたと伝えられます。開山以来、当山は古くから観音霊場として信仰を集め、地元豪族に手厚く保護されました。中世には岩槻太田氏の庇護を受け、室町時代頃には相当に繁栄していたといいます。
 戦国時代に入り、永禄5(1562)年、北条氏康が岩槻太田氏の領地に攻め入り足立郡内の社寺を焼き払いました。岩槻の慈恩寺と並んで太田氏の厚い保護を受け城郭としての機能を持ち岩槻勢の陣地となっていた当山もこの時焼失しました。
 天正18(1590)年5月、小田原の北条勢を攻めた豊臣秀吉軍は寿能城を落とし、大宮付近一帯を制圧しました。現在当山には、それを物語る「秀吉の御禁制」が残されています。
 この後、徳川家康が、秀吉の命令で関東に移り、関東の大部分を占める約二五〇万石の領地を支配する最大の大名となりました。家康は、民心安定策の一環として、寺社に対して朱印状を発給して、その所領を安堵しています。慈眼寺は天正19(1591)年に家康から朱印状を賜り寺領十石の寄進を受け、寺運はやや持ち直しました(これ以後、当山は徳川家に代々所領を保障されています)。
 その後、慈眼大師天海の弟子である円海上人により寛文11(1671)年12月に観音堂が建てられ、当山の再建が果たされます。円海上人は当山の「中興の祖」とされています。
 時下って明治元(1868)年、政府は神仏分離令によって神仏混淆を禁じ神道を国教としました。このため一時、全国に所謂「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れ、極端な廃仏運動による寺院や仏像の破壊、藩が寺領を没収するといった事件が続出しました。旧大宮市内では、著しい廃仏の動きは見られませんでしたが、寺の境内の立木を勝手に売却する不届きな者もいたといいます。江戸時代に特権的な保護を受けていた寺院は神仏分離の嵐の中で一時的に停滞、旧大宮市内でも125ヵ寺の内79ヵ寺が廃絶されました。慈眼寺はこの嵐を乗り越えました。
 昭和に入り、太平洋戦争時には当山の梵鐘が軍に供出されましたが、戦後新たに鐘を鋳造、鐘楼も建てられ、その他、本堂、山門が新築されました。その後、平成に入って当時のバブル景気にも乗って平成大建立がなされ、観音堂、閻魔堂等の主要なお堂が新築、改築されました。その後、平成末期から令和にかけて、大建立の時に手が回らなかった古い神様や仏像、石碑、額等の修復及び整備がなされました。
 令和という新しい時代を迎え、この「大宮水波田観音 慈眼寺」を完成形へ導く仏様として如意輪観音像が造られ、観音堂の下の階に並ぶ仏様たちをまとめ上げる仏様として、その中心に安置されました。これにより、私たち人間の今現在の意識に強烈な光を当てて下さる千手観音様と、私たちに未来からの導きを下さる如意輪観音様が中心に据えられ、性質が微妙に異なる仏様たちの二種類の光が相まって私たちを照らし導いて下さる、これまでにも増して強力なパワースポットが誕生することとなりました。

※紙の資料もあります

右の写真の左側は、慈眼寺でお出ししているパンフレットです(無料)。

より正確で詳しい歴史をお知りになりたい方は、写真右側のさきたま文庫から出版された冊子をお読み下さい。慈眼寺でも、観音境内の札所か本堂に向かって左手の慈眼寺寺務所にて、600円でお譲りします。