千手観音と如意輪観音

千手千眼観世音菩薩

 慈眼寺の観音様は、昔から「水波田(みずはた)観音さま」として地元の方に親しまれております。観音様と言いますと、聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音等、様々に変化した姿で信仰されており、その内、水波田観音は千手観音様です。
 千手観音は、正式には「千手千眼(せんじゅせんげん)観世音菩薩」と言い、千の目であらゆる人を見、千の手であらゆる人をお救い下さる、とても力溢れる仏様です。
 と言いますと、私たち人間とはかけ離れた存在のようにも聞こえますが、少し考えてみて下さい。私たち人間は、様々な人や物との関係性によって成り立っています。それこそ千の目で様々な人や物を見、千の手で様々な人や物と関わりながら生きています。その点だけで言えば、千手観音と私たち人間は全く同じことをしています。
 ただ、千手観音と人間の何が違うかと言えば、千手観音さまは、あらゆるものに対して慈悲の心で見、慈悲の心で仕事をされているのに対し、人間は自分の価値観や物の見方であらゆるものを選別し、時に慈悲の心で、時に軽蔑や憎しみの心で接したりする、その点が違うようです。私たち人間も、自分の心の中を精査し、ものの見方を改め、脳と心の良い使い方をマスターできれば、肉体を持ちながら、千手観音さまそのものとして生きるできるのです。当水波田(現在は水判土と書きます)の観音様は、御利益そのものも大きいのですが、ご縁のある人たちが上記の千手観音のような生き方ができるよう、いつも見守って下さっています。
 

如意輪観音菩薩

 令和という新しい時代に入り、世の中の進化が加速していることを感じていたこのタイミングで、とあるご縁がございまして、新時代に相応しい未来の仏様である如意輪観音さまを慈眼寺にお招きし、その如意輪観音像の開眼式(魂入れの儀式)が令和4年10月29日に執り行われました。
 如意輪観音とは、どんな仏様なのでしょうか。「如意(にょい)」とは「思い通り、思うがまま」という意味です。「輪」とは文字通り「輪っか」の意味ですが、「輪っか」というのは、私たち人間が繰り返す行動のサイクルを指しています。
 「輪廻転生」って言いますでしょう。生まれ変わり死に変わりのサイクルのことですが、もっと短いサイクルで言えば、「行動パターン」ということになります。私たち人間は、一般的に、大人になればなるほど人間としての型が出来上がってきて、決まった思考パターン、行動パターンで行動することが多くなり、変わり映えのしない毎日が繰り返されがちですよね。その「変わり映えのしないサイクル」こそ、小さい単位の輪廻転生であると言えます。
 そこへいくと、小さい子供は、日々新しさの中を生きていますよね。ここが大人と違うところ。決まり切ったパターンというのが無いのです。「解脱」という仏教語の意味は、決まったパターンから自由になること。子供って最初っから解脱しているんですよ。尊敬しちゃいますよね。大人になると輪廻の輪っかに囚われてしまう。だから「人生とは不如意な(思い通りにならない)ものだ」という物の見方が、大人たちの常識になっています(残念ながら)。
 この「不如意」の反対が「如意」で、人生は思い通りに展開し幸せに生きられる、そうなったらとっても嬉しいですよね。如意輪観音さまは、これからの時代、私たち人間がそんなふうに幸せに生きられすようになりますよ、そういう世の中を創っていきましょう、という預言めいた導きをもたらすため、この水判土の地に降臨されたのだと思います。言ってみれば「未来の仏様」であり、未来からの導きを現世にもたらす仏様です。

未来人の生き方とは

 如意輪観音のお姿は通常、右(スマホの方は上)の図のように描かれます。仏像と言えば一般的に直立不動で真面目なお顔をされていますが、この仏様はちょっと傾げていてくつろいで気楽に座っているように見えますよね。まるで、「悟りなんて簡単よ」「願いなんて簡単に叶うよ」と言っているみたいに見えませんか。
 「楽行」という新しい考え方があります。人はもっと楽で楽しい生き方、やり方によって成長し幸せになっていけるというものです。今までの常識では、よく「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」と言われたように、苦しい経験をしなければ大人になれないとか、成功しないとか、幸せになれないとか…、「苦しむことに価値がある」という観念を持っている方が多かったように思います。これは昭和世代のものという感じがします。仏教の信仰においても、「お坊さんは厳しい修行をしたから偉い」というのが社会的通念でしたでしょ。でもこの常識が、令和世代には通用しない気がしませんか?…もうお気づきですよね。昭和までと令和以降では、考え方が180度くらい変わって行きます。平成はその過渡期に当たります。
 未来の人類は、脳と心の使い方次第で、たやすく目標を達成できるようになり、未来の世の中は「思えば叶う」が確実に加速していきます。それが近い将来なのか遠い将来なのかは、あなた次第だということを如意輪観音様は伝えてくれています。また、そのビジョンをこの慈眼寺にご縁のある皆さんで共有することで、水波田観音を中心としたコミュニティーの進化が加速し、その影響が世界へ、いや宇宙全体へと広がっていくと考えています。

 「時間は未来から現在へと流れて来て、過去へと流れ去って行く」ということを、令和に入ってから知りました。しかもこれは、仏教の中に元々あった考え方なのに、今まで大きく取り上げる人がいなかったため知られていなかったのだそうです。今までの通念は、「時間は過去から現在に、現在から未来へと流れて行くので、未来は不確実だから過去の歴史やデータから学ぼう」でしたよね。なのでこれも、今までの常識を覆す物の見方ではないでしょうか。

「未来は不確実なものだから過去のデータから何とか予測はしてみるが、やはり確実とは言えないから不安だ」から「未来はヒラメキとビジョンをくれるものだから、何だかワクワクして楽しみだ」に変わって行きます。

 因みに、如意輪観音の別のお姿としまして、半跏思惟像(上図参照)があります。半跏思惟像と言いますと、有名な所では、広隆寺の半跏思惟像が弥勒菩薩だという朧気な記憶から、個人的には、半跏思惟像は弥勒菩薩なのだという認識を持っておりましたが、実は、中宮寺の半跏思惟像は如意輪観音であると伝わっているそうです。こちらの方がより人間に近いお姿ですが、慈眼寺の如意輪観音像は腕が六本あるタイプの如意輪さまです。弥勒菩薩が未来の仏様だと言われるように、如意輪観音菩薩も未来の仏様だというのは、同じ半跏思惟像というイメージからしても納得していただけるものと思います。

未来から現在へ

 さて、如意輪観音様が「未来の仏様」だとすれば、千手観音様は「現在の仏様」だと言えます。
 これからの時代、未来からの導きを多くの人が感じ、また観じるようになっていきますが、私たち人間は肉体をもって時間軸の中を生きていますので、私たちは常に「今ココ」に存在している、ということがとても大切なのです。未来からの導きを受け取りながら、同時に今現在この場所に存在している、それはちょうど…

如意輪観音による未来からの導きを得ながら、千手観音の如く“今ココ”に存在し生きていく

 当水波田観音で、観音堂の上の階の中心に千手仏がいらして、下の階の中心に如意輪さまを迎え入れた、それはちょうど、観音堂を一つの大きな体に見立てれば、現在の仏である大きな千手観音の胎内に、未来の仏である如意輪観音を宿した形となっている。これは正に、未来からの導きで道を照らしながら今ココを生きるという「令和型の生き方」を象徴するものだと捉えています。
 ここに、如意輪観音を招き入れたことで、この慈眼寺というお寺が、希望ある未来へ向かう宇宙船のような希有なパワースポットとして一つの完成形に至ったと確信する所以があり、この確信があるからこそ公式ホームページを立ち上げる運びとなったのであり、慈眼寺が新たな一歩を踏み出したことに喜びと感謝を感じているところであります。