八百比丘尼の伝説

 本堂の東に、齢八百歳まで生きたという美しい尼僧、八百比丘尼(やおびくに)の碑が祀られています。戦後の農地解放で慈眼寺の敷地外となった場所にあった小さな祠(ほこら)を、平成31年に敷地内に移設、お社を新築させていただきました。
 八百比丘尼の伝説は全国各地に伝わっておりその内容も様々ですが、当山に伝わる『八百姫宮略記』にも次のような逸話が記されています。

 文武天皇の御代(697~707年)、若狭の国に秦の通鴻という人がいた。ある時友人に誘われ海辺に行き暫く目を閉じていると、いつの間にかそこには見たこともない作り構えの立派な楼閣がそびえていた。中に入ると、ここの主人に珍しいご馳走のもてなしを受けた。宴が終わりお暇を乞うと、いつの間にか元の海辺に立っていた。この時、あの場所が龍宮城であったことを知った。家に帰り酔って寝ていると、娘がやって来て父の枕元に置いてあった紙包みを開き、これを食べてしまった。翌朝父が尋ねると、娘は「食べた」と言う。父は「お前は長生きするだろう。これは龍宮の珍物だ」と。それから後その娘は、年を経ても容貌が全く変わらず、色白で美しいままだった。多くの男たちが彼女との結婚を望んだが誰にも嫁がず、日々婚姻を申し込まれるのを厭い、自ら除髪して尼となった。比丘尼となった彼女は、諸国を遍歴して霊場を巡拝、壊れた寺社を修復、各地で社会奉仕の活動を行い、世間で「若狭の白比丘尼」と呼ばれた。その後比丘尼は、社の側に柴の庵を結んで朝夕に斎を行い神仏に祈ること数百年。後に姿を消し、どこの国で亡くなったか知る者はないという。

 当山に伝わる資料以外に、地元水判土には「八百歳の時に当地に立ち寄り、善政を施していた当地のお殿様に残りの二百歳の命を差し上げ、自らは紫金の地蔵尊を抱いて亡くなった」という言い伝えも残っています。当山に祀られていた移設前の祠は、比丘尼が亡くなったとされる場所に建てられたものと言われ、比丘尼が抱いていたという小さな延命地蔵尊(通称「寿地蔵尊」)も当山に秘仏として残されています。当山所蔵の『八百比丘尼縁起』には、享保八(1723)年に丈一寸八分の紫金の延命地蔵尊が出土したと記されています。
 また、『新編武蔵風土記稿』によると「寿地蔵尊」と呼ばれる八百比丘尼の守護仏の旧跡であったことを示す石標が当山の門外に建っており、石標も地蔵尊も寺荒廃の時代に紛失、住僧が深く憂い捜し歩いた後、享保年間中、境内地内の土中より掘り出したのだと言います。